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第53回『照り焼きボジオ!?』の章

2007.3.6 (火)

「OUT TRIO」の東京公演2日目の昼の部、ギターのアレックスにこう紹介されていたテリーボジオ。今から18年程前、ボジオ・フリークが異常発生した時期に、「寺井墓地夫」とか「鳥居慕情」とか言ってる輩がいたのを、ふと思い出した。
 

さて、既に掲示版やライヴのMCでも触れているけど、テリーボジオの18年振りの日本公演に行って来ました。東京3日間4公演とドラム・クリニックには全部参加…勿論ちゃんと正規のルートでチケットを買ってね!予約番号は10番台前半、しかも連日の公演。こんなにガッツでチケットを確保したのは生まれて初めての経験だった。
 

18年前の来日時(ちなみにこの時はジェフ・ベック・グループでの来日)は、俺自身がちょうどツアーとレコーディングが重なっていた為、「テリーボジオが日本にいる訳がない!」と無理やり自分に言い聞かせ、自分の中で勝手にコンサートそのものを無きものとしていた。
 

ところがテリーの横浜公演当日、なんとアレンジャーの都合で急遽その日のレコーディングが中止になったとの吉報?!が…。俺は電話を切るやいなや、「緊急来日公演決定!」とばかりに、慌てて会場へと車を走らせた。
 

思えば中3の秋、先輩から借りたU.Kのライブ盤に針を落として(当時はレコードだからね)、観客の「ゆ~け~、ゆ~け~」というコール(日本公演だからね)からいきなり始まる怒涛のユニゾンにブチのめされたのをきっかけに、俺はテリー病に感染していた。
 

ブレッカー・ブラザーズの「へヴィメタル・ビバップ」は、高校時代からの俺のバイヴルだし(修学旅行ではバスガイドの可愛いおねぇさんに目もくれず、ひたすらウォークマンを聴きながらシャーペン片手にコピーしまくり、後になって一緒に記念写真を撮らなかった事をめちゃめちゃ後悔した程だ)、フランク・ザッパの「ライブ・イン・ニューヨーク」の“Black Page #1”という曲では、現代音楽的なアプローチとポリリズムの応酬にそれまで感じた事の無いような戦慄を憶えたし(つい先日行われたTAMA DRUMのイベントで、テリー来日記念として#1&#2をメドレーで演奏してきちゃいました)、ミッシング・パーソンズがミニ・アルバムを出した時は「えっ?テリーがこんなにポップなバンドやるの?!」と正直驚き、間もなく出た1stアルバムではあまりのカッコよさに身震いし、2ndアルバムではあの天才集団の生み出すポップ・ロックのサウンドにコテンパンに叩きのめされた。
 

他にもザッパの作品、グループ87、パトリック・オハーン、マーク・アイシャム、ロビー・ロバートソンなどなど、中にはいまひとつピンと来ない作品もあったけど、プロになってからもとにかくテリー病は悪化するばかりだった。
 

「シブがき隊」のバック・バンド時代の俺のツアー仕様ドラムセットは、ツーバスにタム9個(ロートタムの時は7個)に、テリーがミッシングパーソンズの2ndアルバムで、その可能性やサウンドの特性を見事なまでに使いこなした「シモンズ」と云うエレクトリック・ドラムのパッド4枚、それに巨大なラックからシンバルを十数枚吊り下げ、自分の中では完全にU.K.+ミッシング・パーソンズのテリーの混合セットを意識していた。これもテリー病が進行性であるがゆえの症状だ。
 

そう言えばこのセット、ある時野外イベントで一緒になった小泉今日子ちゃんがえらく興味を持ったらしく、最初は遠目に見ていたのだが、おもむろにセットに歩み寄り、なんとラックにぶら下がって「すご~い!おもしろ~い♪」と言って去って行った事があった(笑)。勿論彼女が去ったあと、彼女がぶら下がった箇所のパイプに触ろうとする他のバンドのメンバー達の執拗な妨害を払いのけ、見事俺がぶら下がり歓喜していたのは云うまでもない。
 

その後シブ楽器隊を辞め、“Sense Of Wonder”に加入した俺は、いわゆる芸能界のお仕事モードから解き放たれて、U.K.と同じキーボード・トリオのバンドに加入したと云う事で、それまで以上にテリー病はひどくなり、ドラムセットやフレーズ、ボーカルマイクのセッティングから、歌う時のマイクの引き寄せ方や払いのけのタイミングまで研究し、今思えば完全に“like a Terry”がこの時期の俺のドラミングのテーマだった。そう、かつてはテリー自身が“Like a Tony”であったように…って俺の場合そんな格好いいもんじゃないけどね(笑)。
 

この頃ひとつの大きな出来事があった。当時のSense Of Wonderのマネージャーで、ジェネシスのファンクラブの副会長も勤めていたW氏から、「そういえば、テリーボジオがU.K.で叩いてるビデオって見たことある?」という信じられない言葉を耳にしたのだ。
 

「そんなビデオ本当にあるんですか?」とすかさず目を輝かせて突っ込む俺に、「じゃあ観せてあげるよ」と言いながら、事務所のミーティング室へ俺を案内してくれた。そして、ビデオ機器の回りにある数本のビデオの中から一本を取り出し、おもむろにデッキへと入れた。
 

と、そこには“CAESAR’S PALACE BLUES”の高速ユニゾンを、おしりを浮かせながら激しく叩くスポーツ刈りのテリーボジオの姿が映し出されたのだ。
 

俺が人生で初めてテリーがドラムを叩いている姿をみたのがこの時だった。確か84年だったと思うが、U.S.Festivalに出演したミッシング・パーソンズの映像がテレビで放映されたのを見逃した事があって、本気で悔しい思いをした事もあり、憧れ続けていたテリーが、目の前にある画面の中で動いている事自体がもう信じられなかった。
 

この現実にすぐには順応出来ず、呆気にとられている俺の目の前に次に映し出された映像は、“NOTHING TO LOSE”を叩きながらコーラスをしているテリーの映像だった。それを観た瞬間俺は一気に感極まり、涙をこらえると云う動作のある事をしばし忘れていた。感無量だった。
 

そんな俺を見たマネージャーは、「そんなにテリーのファンだったの?」とちょっと驚いていた。ちなみにこの後立て続けに、フランク・ザッパでの衝撃的なテリー、ミッシング・パーソンズでの映像、そしてあの「Solo Drums」などの発売で、テリーの映像は当り前のように観れるようになっちゃったんだけどね。俺のあの感動の涙は…(笑)。
 

そうそう、こんな話もある。俺が一番最初にドラム・マガジンのインタビューを受けたのが’87年に発売されたNo.20号(当時は季刊誌)。で、なんとその時の表紙を飾ったのがテリーだったのだ。しかも同誌が初めて彼の特集を組んだ号だった。これは俺のドラマー人生の中でも、かけがえのない偶然の一つだ。
 

おっと、随分話がそれてしまったので、18年前の来日公演@横浜アリーナの話題へと戻す事にしよう。
 

急いで会場へ向かったが、既にコンサートは始まっていた。てっきりジェフ・ベックのワンマン公演だと思っていたのだが、ニール・ショーンやスティーヴ・ルカサー達も出ていて、結構ラフなイベントのように感じた。
 

「とりあえず他はいいけどテリーが観たい…」そう思いながらチケットを購入して中へ入り、係員に案内された席は、なんと最上階の一番後ろ。う~ん、席が悪い。俺の初生テリーは、金髪の頭にに大きな黒のベルベット・リボンをつけた、全長2~3cmのまるでミニチュアのテリーだった。
 

席の悪さはそうとうショックだったけど、それでも崇拝するテリーがこの日本にいて、同じ空間で同じ時間を一緒に過ごしているんだと思うだけでも幸せだった。それに映像で観るよりもはるかに激しく、まるで踊り狂うかの如く奏でられる独得なドラミングを観て、彼のパフォーマンスの凄まじさに鳥肌がたったのを、今でも鮮明に憶えている。もはやこの時点で、俺のテリー病に効くワクチンは存在していなかった。馬鹿につける薬がないとはこの事だ。
 

 
ちょっと長いね。後半へ続く…(ちびまる子風)。
 

 

2007.3.6.

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